追憶──野平先生との日々 V

 

プレトークで野平先生はとりわけ「ドビュッシーが好きである」と仰っていた。
そのことは私も先生と日々を過ごす中でひしひしと感じていたし、私も先生と同じく、とりわけドビュッシー(とバッハとベートーヴェン)が好きな人間だ。
そこで、私が大学一年生の終わりの頃──2017年1月19日に書いた"音のつぶやき"と題した記事をこちらで再掲し、「追憶──野平先生との日々」を終わりにすることにしようと思う。
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私が芸大に入って、初めて分析を課せられた曲はドビュッシーのヴァイオリンソナタだった。そこでドビュッシーの音楽語法を教わった。
その時は「あぁ、なるほど」と理解して、調性から離れた小品を書いている時に、実験がてらその音楽語法を取り入れてみたりした。
それからラヴェルやストラヴィンスキー、シェーンベルクといった"現代音楽の祖先"にあたる人たちの作品の分析をし、夏休みになってから(私からしたら)膨大な量のウェーベルンやシェーンベルク、バルトークの楽譜の分析をしてみた。楽譜の緻密さにひどく感銘を受け、彼らの音楽語法や現代音楽語法を習得しようと必死に「語法・理論」にしがみついた。
大学に入ってから「現代音楽」という途方もない海に突如として放り出された私には、それしか手立てがなかった。
先日、コンサートに伺った時のこと。
プログラムはドイツものが中心だったが、ドビュッシーの映像第2集もプログラムの中に取り入れられていた。
作曲のことで漠然としたジレンマを抱えていたせいか、演奏を拝聴している時、「あぁ、これは確かにドビュッシーの特徴的な音楽語法だ」と思った。
それと同時に「これは彼が実際に聴こえてきた音、つまり"耳"で聴いて書いた音なんだ」と感じた。今やドビュッシーの音楽語法として体系化されている技法(理論)は、ドビュッシーが耳で捉えたものを分析・抽出しただけに過ぎないのだ、ということを身を以て感じた瞬間だった。
その時、ストラヴィンスキーが「直感は理論を先行する」と述べていたことや、とある画家が「アイディアに合うカタチではなく、カタチに合うアイディアを探している」と述べていたことを思い出した。そういうことか、と感覚で理解した。
どちらも、創作において"理論"が先立つことの危険性を示唆しているのではないか。
理論や語法を追いかけ、聴覚ではなく頭で曲を書くこと。それは本当に私がしたい「創作」なのか。
音楽は音響学・数学的な側面もあるが、それが「後に人の手によって体系化されたもの」であるとするならば、本質は決してそこではないのではないか。
そんなことを頭に巡らせながら導き出した結論は、今後私の中で揺らぐことのないであろう確かなものだと確信した。
「やりたいこととやってることが一致していない、混沌とした自分の現状」の根が掴めた気がしたのだった。
演奏を聴き終えてからプログラムノートを読むと、ドビュッシー自身が残した言葉が載っていた。それは、20世紀末 及び21世紀の今日の音楽について言及したのではないか、と錯覚せざるを得なかった。
自戒の念も込めて、その言葉をのせて今日は終わりにしようと思う。
───今まで音楽は間違った原理にたって安閑としていたんです。あまりにも"書く"ことを心がけすぎたのです。音楽を紙のために作っているのですよ。耳のために作られてこそ音楽なのに。
音楽は謙虚に人を楽しませることに努めるべきです。極端に複雑なものは芸術と相容れぬものです。美は"感じ取れるもの"でなければなりませんし、我々に直接的な悦びを与え、我々がそれを捉えるのに何らの努力をせずとも、こちらを否応なしに納得させ、或いは我々の内に忍び込んでしまう、というものでなければなりません。

 

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